やはり鏡

大人がよく使う言葉に「無理です」というのがある。

「不可能」という意味でよく使う。
「それは無理です」とか「そのプランは無理だと思います」とかいう具合に。

「不可能」というのは当然ながら重大な判断である。
言うからにはきちんとした根拠がある。

それゆえ、「なんで無理なの?」と聞き返されると、「信用しとらんのか?」とショックを受けたり、「なんで分からんの? 頭わるいのとちゃうか?」と反発を覚えたりする。

この「無理」。最近、うちの子供たちもよく使う。
コマーシャルで上野樹里も使っているぐらいだから、若者の間では慣用表現として定着しているのだろう。

ただ使い方が大人と違う。
「やりたくない」とか「承知できない」とかの意を表すときに使う。

一種の「婉曲表現」なのだろう。
大人も「できません」とはハッキリ言はない。ハッキリ言うときはたぶん喧嘩の状態である。
通常は「いやあ、それはちょっと。。。」と言葉を濁し、相手にこちらの意を汲み取ってもらおうとする。
身勝手な話だが、いちおう社会的に合意された態度である。

だから子供たちが新種の婉曲表現を使い出したからといって、目くじらを立てることはない。
表現を変えるのは子供たちの特徴だし、特権でもある。

ところが、おじさん的にはなんとなく嫌な感じがするのである。

なぜだろう。

それは「無理」という言葉が単なる婉曲表現ではなくて、自然不可能的意味合いを追加している気がするからである。
自然不可能的というのは、理論的に不可能というようなことである。
つまり、自分がやりたくないわけじゃない、というまやかしがあるように思えるのだ。


しかし、どうして子供たちが責任逃れするのか。
婉曲だけで十分ではないか。

そこには大人の影響があるのは間違いなさそうである。

大人が使う「無理」は、実は多くの場合「やりたくない」という意味であること。
そしてそれをカモフラージュするため、都合のよい事実を巧妙に「根拠」に仕立て上げていること。

きっと子供たちはお見通しなのでしょう。

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