言語不信主義の未来

海外の有名人が来日すると、テレビのインタヴューアーは必ず「東京(日本)の印象」を尋ねる。
20年ぐらい前にPLOのアラファトが来日したときもそうだった。

アラファトの答えは「ライカ カェラ(カイロのようだ)」。

そのときは、たまたま直前にカイロに行っていて、その不快適さを嫌というほど体感した後だったので、はあ?何言ってるのこの人、と思てしまった。
だって、タクシーに乗ればノミが跳ねているし、道を走れば穴ぼこだらけ、レストランにはろくな料理がなく瓶ビールは気が抜けている、そんな場所とわが東京が似ているなんて、まったく不同意である。

いったいアラファトは何をもって「カイロのようだ」といったのだろうか?


大昔、エジプトは、世界一の文明国だった。それはあのピラミッドが証明している。

技術が発達していたということは、数学もかなり発達していたということである。
現に、タレスだのユークリッドだのという古代ギリシャ数学者が残した書物の内容は、ほとんどエジプト人から教えてもらったものといわれている。だからユークリッド幾何学なんてのは盗人猛々しい呼称で、本来はエジプト幾何学と称すべきものである。

しかしそれだけの文明を誇ったエジプトも、今はかつての面影はない。教え子の西洋国から逆に教えを乞う立場である。

どうしてこの逆転が起こったのか。

その原因は、エジプト幾何学がユークリッド幾何学と称されていることと関係がありそうだ。

エジプト人の独創性、つまり発明や発見をなしえる能力は、古代ギリシャ人と同等か優れていた。ところが、それを分類整理して記録することについては、古代ギリシャ人が勝っていた。そのためにユークリッド幾何学という名前が後世に伝わったのである。
この差、つまり言語化へのこだわりの有無が文明力を逆転させた大きな原因ではなかろうか。

発明や発見の源泉は、直感であり、直感は非言語的なものである。言葉を尽くして議論したからといって、よいアイデアにたどり着くわけではない、むしろ言葉は時として直感を妨げる。

そのためエジプトでは、言語および言語化をあまり重視しなかったのであろう。

一方古代ギリシャでは、徹底的に知識の言語化を推進した。
ユークリッド幾何学の公理(定理)は、何から何まで言葉で言い表さねば気がすまぬといった気概に満ち溢れたものである。

ギリシャ人の言語至上主義を見て、エジプト人はどう思ったのだろう。
おそらく、「頭の悪いやつ」「そんなこといちいち書かんでも分かるだろ?」とせせら笑ったのではなかろうか。

西洋的、言語至上主義には、直感を妨げること以外にも問題はある。
そもそも言語は不完全なもので、森羅万象を正確に表現できるわけでも人間に完璧な思考をもたらすものでもない。
そんな不完全なものを、あたかも完全なものとして扱うがために、たとえば差別感情のような不必要な対立を招いたりもする。

しかしそれでもなお文明の発展という点では、カンピュータよりも言語化の方が効果的であった。それは人間の思考を時間と場所を越えて連結させることができるからである。非言語的な感覚は、結局個人に閉じてしまい、時間も場所も越えることはできない。

ユークリッド幾何学がわが国に伝えられたのは、江戸時代のことだそうである。
よく知られるようにわが国の数学、すなわち和算は、平方根は言うに及ばず、微積分にも迫っており決して諸外国の侮りを受けるものではない。その和算に通暁した日本の数学者は、ユークリッド幾何学を見てなんといったか。

残念ながら「こんなことは当たり前だ」といったそうである。
エジプト顔負けの言語不信主義、感覚至上主義である。

そしてこの言語不信主義は今日もなお優勢を保っているように見える。
当然だ、とか、そんなことは考える必要がない、とかといった思考停止ワードを聞かぬ日がないからである。

もしかするとアラファトは、そこまで分かっていて「東京はカイロのようだ」と言ったのだろうか。

最近、ふとそう思った。

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