守るが負け
精神論と挑戦論。
その区別を客観的に判断するのは難しい。
精神論とは、物理的な問題・制約を精神的な努力で解決しようとすることである。要するに現実的に実現不可能なことを、それでもなんとかやれ!というような話しである。
しかしこの定義自体曖昧である。
精神的努力がどれほどの物理的力に相当しうるのか明確に示すことは誰にもできないからである。精神力だけですべての物理的問題を解決することは不可能だろうが、さりとてまったく解決できないということもない。逆に競争や戦争の場合、いかに物理的に勝っていても、精神的努力が足らなければ負けるということはよくある。
仕事の例で考えてみよう。
どう考えても1ヶ月かかる仕事を3週間で仕上げよ!といわれた場合、精神論と挑戦論のどっちだろう。
受け手の立場なら「それは無理な注文」で精神論だろう。
しかし出し手の立場なら「それぐらいなんとかなる!」「そんな敗北主義でどうする!」と挑戦的目標になるだろう。
自分の経験を振り返る。
いちおう公平な判断をしているつもりである。
しかし、胸に手をあててよく考えると、どうも疑わしい。上司から指示された場合は、実は挑戦的な課題なのに精神論だと反発し、その一方、部下や業者には精神論を押しつけているのではないか。
冷や汗がでる。
公平無私な基準はないものだろうか。
とりあえず、これはどうだろう。
「会社なり組織にとって、失うものがあるかどうか」
こういうことである。
その精神的努力が所期の物理的効果を達成できなかったとき、たとえば戦争に負けるとか、会社がつぶれるとか、何かを失う場合は、精神論と判定する。
なぜか。失うものがある場合は、ほかの物理的解決策を考えるべきだからである。それができていのは、怠けているか、無能かのどちらである。それを顧みず無理を言うのは結局出し手の自己防衛にすぎない。そんなものは受け手にとって挑戦でも何でもなく、ただうまいこと使われているだけである。
一方、失うものがない場合、これは挑戦論といえるだろう。
逆に失うものがないのに「無理です」とか「できません」というのは敗北主義。但しここでいう失うものの中には、個人的なエネルギーとか時間は含まれない。それを失うのを厭うのは、単に怠けである。
いい方を変えると「私利私欲があるかどうか」かな。
これも一慨にはいえないか。
まだ完璧とは言い難い。
が、とりあえず今日はここまで。
その区別を客観的に判断するのは難しい。
精神論とは、物理的な問題・制約を精神的な努力で解決しようとすることである。要するに現実的に実現不可能なことを、それでもなんとかやれ!というような話しである。
しかしこの定義自体曖昧である。
精神的努力がどれほどの物理的力に相当しうるのか明確に示すことは誰にもできないからである。精神力だけですべての物理的問題を解決することは不可能だろうが、さりとてまったく解決できないということもない。逆に競争や戦争の場合、いかに物理的に勝っていても、精神的努力が足らなければ負けるということはよくある。
仕事の例で考えてみよう。
どう考えても1ヶ月かかる仕事を3週間で仕上げよ!といわれた場合、精神論と挑戦論のどっちだろう。
受け手の立場なら「それは無理な注文」で精神論だろう。
しかし出し手の立場なら「それぐらいなんとかなる!」「そんな敗北主義でどうする!」と挑戦的目標になるだろう。
自分の経験を振り返る。
いちおう公平な判断をしているつもりである。
しかし、胸に手をあててよく考えると、どうも疑わしい。上司から指示された場合は、実は挑戦的な課題なのに精神論だと反発し、その一方、部下や業者には精神論を押しつけているのではないか。
冷や汗がでる。
公平無私な基準はないものだろうか。
とりあえず、これはどうだろう。
「会社なり組織にとって、失うものがあるかどうか」
こういうことである。
その精神的努力が所期の物理的効果を達成できなかったとき、たとえば戦争に負けるとか、会社がつぶれるとか、何かを失う場合は、精神論と判定する。
なぜか。失うものがある場合は、ほかの物理的解決策を考えるべきだからである。それができていのは、怠けているか、無能かのどちらである。それを顧みず無理を言うのは結局出し手の自己防衛にすぎない。そんなものは受け手にとって挑戦でも何でもなく、ただうまいこと使われているだけである。
一方、失うものがない場合、これは挑戦論といえるだろう。
逆に失うものがないのに「無理です」とか「できません」というのは敗北主義。但しここでいう失うものの中には、個人的なエネルギーとか時間は含まれない。それを失うのを厭うのは、単に怠けである。
いい方を変えると「私利私欲があるかどうか」かな。
これも一慨にはいえないか。
まだ完璧とは言い難い。
が、とりあえず今日はここまで。
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