常識の壁
深夜の教育テレビで小学校の林間学校を題材にしたドキュメンタリーを放映していました。
その中でこんなシーンがありました。
低学年の男の子がカエルを殺して遊んでいる。
それを見つけた高学年の男の子が、腕をひっつかんで「貴様は何をしとるか!」と注意する。
低学年は納得しない。
そのうち高学年の女の子たちも集まってきて「だめだよ、そんなことしちゃあ。可哀相でしょ」と口々に叱責する。
低学年はそれでも納得しない。
抑えつけられても、地団駄を踏んで暴れる。反省の色なしです。
さすがに多勢に無勢、納得せぬまま泣き出してしまいました。
それからしばらく一人寂しく佇む。
三十分後、夕食の準備が始まりました。
低学年は高学年のところにきて、作業を手伝いだした。
めでたし、めでたし。
子供が集団生活を通じて社会性を身につける、感動のドキュメントということですね。
しかし私は、心配になったのです。
低学年のわがまま坊主は、確かに悪い。
まわりの人間にはしっかり指導してもらわねばなりません。
それは、まあ当たり前。
でもね。
心配なのは高学年の方です。
こいつら、どういう理屈で「カエルを殺してはいかん」と言っているのか。
もしかすると、「生き物を殺してはいけません」みたいなあやふやな論理、いいかえると「常識」に盲従しているだけではないのか。
こういうやつらにこそ、しっかり「思考の方法」を教育してもらわんと困る。
微笑ましいなんて喜んでおると、日本が滅びる。
そう思ったのです。
だってそうでしょ。
人間は毎日生き物殺して食べているわけです。
それが「生き物殺してはいかん」という理由だけで「カエル殺し少年」を叱正するのは無理があります。低学年坊主に「納得いかない顔」されるのも仕方ない。
じゃあ、「遊びで殺すのはいかん」と言ったらどうか。
まだ弱い。
大人は釣りをやるし、「活き造り」なんて喜んで食うではないか。
あれは遊びだろ、そう反論されたらどうするか。
こう考えると、「カエル殺しはいかん」ということを低学年坊主が納得するよう説明するのは、結構しんどいと分かります。
それでも、やるべきなのは間違いない。
みなさんなら、どう説明しますか?
我々SEのように「思考の機械化」を生業にするものにとって、「常識を無批判に受け入れる」ことは絶対やってはいかん事と思います。
なぜか。バグを発見する能力を失うからです。
バグとは要するに「思考の欠陥」です。
それを発見するためには、最低限「バグの存在を前提する」必要があります。
それを「常識や社会のルール」にバグはない。
そう片付けていると、バグは一生発見できないわけです。
多くのシステムトラブルの原因は、「ここにはバグはない。なぜなら今まで問題なく動いていたから」というような思い込みですね。
いかがでしょうか。
その中でこんなシーンがありました。
低学年の男の子がカエルを殺して遊んでいる。
それを見つけた高学年の男の子が、腕をひっつかんで「貴様は何をしとるか!」と注意する。
低学年は納得しない。
そのうち高学年の女の子たちも集まってきて「だめだよ、そんなことしちゃあ。可哀相でしょ」と口々に叱責する。
低学年はそれでも納得しない。
抑えつけられても、地団駄を踏んで暴れる。反省の色なしです。
さすがに多勢に無勢、納得せぬまま泣き出してしまいました。
それからしばらく一人寂しく佇む。
三十分後、夕食の準備が始まりました。
低学年は高学年のところにきて、作業を手伝いだした。
めでたし、めでたし。
子供が集団生活を通じて社会性を身につける、感動のドキュメントということですね。
しかし私は、心配になったのです。
低学年のわがまま坊主は、確かに悪い。
まわりの人間にはしっかり指導してもらわねばなりません。
それは、まあ当たり前。
でもね。
心配なのは高学年の方です。
こいつら、どういう理屈で「カエルを殺してはいかん」と言っているのか。
もしかすると、「生き物を殺してはいけません」みたいなあやふやな論理、いいかえると「常識」に盲従しているだけではないのか。
こういうやつらにこそ、しっかり「思考の方法」を教育してもらわんと困る。
微笑ましいなんて喜んでおると、日本が滅びる。
そう思ったのです。
だってそうでしょ。
人間は毎日生き物殺して食べているわけです。
それが「生き物殺してはいかん」という理由だけで「カエル殺し少年」を叱正するのは無理があります。低学年坊主に「納得いかない顔」されるのも仕方ない。
じゃあ、「遊びで殺すのはいかん」と言ったらどうか。
まだ弱い。
大人は釣りをやるし、「活き造り」なんて喜んで食うではないか。
あれは遊びだろ、そう反論されたらどうするか。
こう考えると、「カエル殺しはいかん」ということを低学年坊主が納得するよう説明するのは、結構しんどいと分かります。
それでも、やるべきなのは間違いない。
みなさんなら、どう説明しますか?
我々SEのように「思考の機械化」を生業にするものにとって、「常識を無批判に受け入れる」ことは絶対やってはいかん事と思います。
なぜか。バグを発見する能力を失うからです。
バグとは要するに「思考の欠陥」です。
それを発見するためには、最低限「バグの存在を前提する」必要があります。
それを「常識や社会のルール」にバグはない。
そう片付けていると、バグは一生発見できないわけです。
多くのシステムトラブルの原因は、「ここにはバグはない。なぜなら今まで問題なく動いていたから」というような思い込みですね。
いかがでしょうか。
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