I don't know.

日本人は「知りません」という言葉を発する時、相当な精神力を必要とします。
「物を知らん」と思われるのは、たいへんな屈辱だからですね。

これに対して欧米人は、あっさり"I don't know."と言います。
まったく恥じる樣子はない。むしろ「そんなこと聞くなよ」といわんばかり。
あまりの違いに、びっくりします。

この違いはどこからくるのか。

日本人が「知らない」ことを恥じるのは、日本文化の中で、「知識」が非常に重視されてきたからです。つまり、日本人にとって「頭がいい」とは「知識が豊富」とほぼ同義だった。
本来は論理勝負のはずの議論でも「知識に勝った」方が圧倒的に有利です。「論理的に勝る」のは、「口が上手い」としか評価されず、客観的に見れば勝っていたとして周囲の人になかなか認めてもらえません。古典文学の議論風景でも、大体は、うまい「故事」を引用した方が勝ちです。現代の会社でもそうです。過去事例とか「エライ先生の引用」が大きくものを言います。

それに対して欧米人は、知識よりも論理(理屈)優先です。
議論に勝つ=論理的に勝つ。「知識が無い」のは恥ずかしくない。平気で"I don't know"と言えるわけです。

日本人と欧米人の考え方の違いは、教育にも現れています。

・日本: すべての教育課程(初等、中等、高等)で、知識教育中心。

・欧米: 初等および中等教育では、「物事を筋道立てて説明する」というような技術(アーツ)教育中心で、知識教育は非常に少ない。一方、高等教育(大学)では知識教育を徹底的に行うため、一週間に本を3冊読んでレポートをまとめてこい、みたいな宿題(詰め込み教育)が頻繁に行われる。学生もそれを期待している。

藤原正彦「若き数学者のアメリカ」によると、アメリカの大学生は、高校まであまり知識を教えてもらっていないので、大学では知識教育を授かるのを非常に楽しみにしているそうです。
また、田舎の高校生でも、テーマが恋愛などの身近な話であれば、ハーバードの教授とでも互角に議論ができるほど「口が達者」だそうです。

結果的には、欧米でも日本でも、インテリ=知識が豊富な人、ということすが、基礎の部分が大きく違うのですね。
欧米は、まず論理(思考方法)があって、次に知識なわけです。

我々日本人が欧米人と話をしていて非常に苦しくなるのは、
音声言語学的な問題だけでなく、why?を連発される=「思考の結果ではなく、思考方法の差異を連続的に問われる」ことに原因があると思います。

日本人にとって「思考方法」は、いわば空気みたいなもの。
人によって差異がある、それは知ってるけど、それがどうしたと思っている。
差異の表現なんて、習ってもいないし、あまり説明したこともない。
日本人同士の会話では「思考の結果」を伝えることが中心。

だから「あなたの考え方は、今までのと、どう違うのか?」なんて欧米人から聞かれると、「いや大体あなたと同じですよ」なんて言って失笑を買うわけです。
欧米人からすると「そんなこと当たり前でしょ人間なんだから。その微細な差異を表現することが知性でしょ」ということですね。

利害が絡む議論の場では、特に苦戦を強いられますね。
思考方法の差異を説明するだけでも難儀なのに、その上「思考の優勢」をアピールしないといけない。しんどいです。

ちなみに欧米でも、ありきたりな考えを長々としゃべるのは、No inteligenceとかNot educationalと馬鹿にされるようです。

いかがでしょうか。

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