コミュニケーション・ツール

毎月の電話代、インターネット代を見ると怒りが湧き起こる。
家族4人分を合わせると3万円近くになるからだ。
文庫本なら30冊、ガソリンなら150リッター以上に相当する大金である。

それだけの大金をコミュニケーション道具に投じているのである。
それだけツールを使いこなしているのなら、我々のコミュニケーション能力も長足の進化を遂げていてしかるべしである。

試しに、25年前と比べてみよう。
インターネットも携帯もなかった時代。筆者が学生のころである。

そのころ、家庭の通信設備といえば電話だけだった。
ファックスもない。ポケベルもない。Emailなど影も形もない。

電話も原則として家庭に1台である。
「携帯電話」はSFの世界にかろうじて概念が存在していたに過ぎない。

夜分、友人(男女を問わず)に連絡するときも、家庭に1台の電話で、相手の

、これまた家庭に1台の電話にかけるのである。

不便だった。

しかし、この不便はコミュニケーション能力の練成には非常に良い環境だったように思える。
いくつもの難題を課せられたからである。

まずはセキュア通信である。
当時、電話が設置されている場所は、居間もしくはその近辺だった。
だから話の内容は家族に筒抜けだ。
ところが、夜分に話したい内容には、往々にして家族に聞かれるのを憚られる

ものが多い。
そこでセキュアな会話を工夫する必要があった。
暗号、符丁、隠語を駆使した。そして相手の言わんとすることを的確に察し、

また察してもらえるよう言語を操作せねばならない。

次の難題は時間制限である。
通話時間は、3分以内とされた。
5分はまだ許容範囲。
しかし、10分を過ぎると家族からのプレッシャーは危険水準に達する。
通話終了後の追求や叱責は免れない。
リベラルな家庭なら、「ずいぶん長い話だったのね」など嫌味ひとつで

済むだろうが、頑固オヤジが統率する厳しい家庭であれば「何時間電話しているんだ!」など罪過を上回る叱正を蒙ること必定であった。

セキュアでかつ高密度な通信を行う。現代の技術をもってしても困難な課題。それを当時は人間系で処理したのである。

しかしこれらの課題は、まだ軽いほうである。

最大の難題は、プロトコルだった。特に女子に電話するとき。

最初に母親が出てくれれば、まだよい。
しかし、父親が出る可能性もある。
そのため、電話かける前に、一連の会話の流れ(プロトコル)について入念に準備しておく必要があった。
それをイメトレし、場合によっては口に出してリハーサルするのである。

それでも想定外のやりとりは発生する。
そのときは必死に言語を駆使したのである。
冷や汗をかき、しどろもどろになりながら目的を果たしたのであった。


会社に入っても、コミュニケーションツールの状況は家庭と大差なかった。
やはり電話がメインである。

「電話取り次ぎ」は新入社員の重要業務であった。
これは仕事というより、むしろコミュニケーションや仕事の基本を習得するための教育訓練だった。

まず「おとな言葉」の洗礼を受ける。
「ありがとうございます」「お世話になっております」「承りました」「〜で

ございます」等々。
学生時代は、聞いたことがあっても、使ったことのない言葉である。
ぎこちなく使えるようになるまでには、相当の時間が必要だった。

相手の要件を聞く。これも難題だった。
そもそも仕事の内容をまだ分かっていない。
その状態で、ややこしい話を受けても中身が分かるはずはない。
それでも聞くしかないのである。そしてメモをとるのであった。
メモを渡すとき、先輩にちょっとだけ質問する。
それで少しずつ仕事を覚えるのだった。

フォーマルな連絡はあくまで「文書の郵送(社内便含む)」だった。
FAXは補助的なもので、メールはまだない。
やりとりには時間もコストもかかる。
内容が不明確なため相手から質問を受ける、というのは恥ずべきことだ。
いったん送った文書は簡単に訂正できない。完璧を期する必要があった。
そのため、先輩や上司に何回もチェックされた。

その過程で否応無く、先輩や上司と会話をする。
会話といっても新入社員がしゃべるのは「はい」とか「すみません」が殆ど。
あとはひたすら説教を聞くのである。
それで、会社内のコンテキストや非言語的あるいは不可視的なアセット(資産)を頭に

叩き込むのである。

メールボーイという仕事もあった。
郵送で間に合わないとき、文書を直接持っていく仕事である。
これも新入社員にとっては、辛い仕事だ。
先方に到着する。知っている人は誰もいない。みんな怖そうに見える。
勇気をふりしぼり、そのあたりの人に声をかける。
声が小さいのか、振り向いてもらえない。
音量を上げて再度声をかける。すると今度はその部署の全員がいっせいにこちらをふりむく。
気まずい。緊張で心臓が飛び出しそうだ。
それでもなんとか要件を告げる。

ところが、話はスムーズにいかないのである。問題が発生する。

たとえば相手が不在。
上司からは文書の内容を説明してこいと言われている。
しかし相手が不在の時の対処法については聞いてこなかった。
どうしたらよいか全く分からない。
どうしてそれを聞いておかなったのか、自責の念でいっぱいになる。冷や汗が流れる。
こういう経験を通じて、先読みとか段取りを学習するのである。


コミュニケーション・ツールが発達した現代、コミュニケーションの様相はど

う変わったのか。

新人も、自分の番号にかかってきた電話だけを取る。
奇妙な敬語をしゃべっていても上司や先輩に聞き咎められることは少ない。
先輩の電話を受けるのはボイスメールの仕事になった。
内容の分からない電話を受けて、おどおどすることもない。
メモを差し出しながら、先輩の説教を聞く必要もなくなった。

メールボーイという言葉は死語と化した。
世界中に一瞬にして文書を送ることができる。
適当に書いたメールを誰の添削も受けず、いきなり見ず知らずの人に送信す

る。
間違っていれば、訂正版を送ればよいのである。
質問されたらメールで答えればよいのである。
添削に時間をかけるのなんて無駄。
だいたい内容が伝わればよい。

まことによい時代に見える。
コミュニケーション・ツールという文明の利器は、他の文明の利器と同様、人間の負荷軽減に多大な貢献を果たした。
特に、知らない人と直接口をきく、というストレスは、劇的に軽減した。
そういう人にはメールすればよいのである。直接会話しなくてよい。
文章の完成度を高めるためのストレスもなくなった。
大人たちからも、文章に凝る暇があったら、量をこなせといわれる。

ところがこの状態は、コミュニケーション能力の発達という面から考えると、まったくマイナスの働きをするのである。

「話し難い相手」「自分とは年齢も価値観も違う相手」と直接会話をせざるを得ない環境で育ったものと、そういう相手とは会話しないで済む環境で育ったものとで、どちらのコミュニケーション能力の方が発達するであろうか。

「間違えたらたいへんなことになる」というプレッシャーの中で文章を書いたものと、「間違えたら送りなおせばよい」と考えながら文章を書いているもので、いったいどちらの方が高い文章力を身につけることができるだろうか。

答えは自明である。

コミュニケーションの根本は、どこまでいっても人間対人間の直接会話である。その経験が少なくなれば、コミュニケーション能力は必然的に低下する。
完成度や錬度を高めようとするひたむきな努力なしに、向上する能力などありはしない。


そして今、たいへんなことになりつつあると感じる。

コミュニケーション・ツールの発達による、ストレスゲンの削減量とコミュニケーション能力の低下に伴い新たに垂れ流されるようになったストレスゲンの量が拮抗もしくは逆転しつつあると感じるのである。

ストレスゲンは猛烈な勢いで増加している。
何を言いたいのか分からない「Eメール」、必要な情報になかなかたどり着けないWebページ、プロトコルを全く無視した若手営業マンのしゃべり方、等々。

コミュニケーションの能力の低下は、なんとしてでも阻止せねばならない。
高い金をコミュニケーションツールに払ってるのだから。

コメント

鴨のテオクリート さんのコメント…
宮城谷昌光の「太公望」お勧めです。池で釣りをしているイメージが定着しているのが不思議なくらい別人です。イスラエルやパレスチナの建国リーダーと同じ役割を担った人ですね。望が剣の達人等想像もできませんでしたが、剣劇を見ているようで爽快です。

人気の投稿