不完全終止
2007年に「プロポーズ大作戦」という大ヒットドラマがありました。
長澤まさみが出てたやつです。
このドラマ、最終回のエンディングが中途半端、ということで視聴者から多数の問い合わせ(抗議?)があったそうです。
うちの娘も「訳わかんない」と申しておりましたので、「アホか?」と言ってやったら、すごい睨まれました。
曖昧な終わり方、つまり不完全終止はドラマや小説や音楽で19世紀ぐらいから頻繁に使われてきたテクニックです。
余韻を残すことで想像力や不満足感をかき立て「もう一回見たい、聞きたい」気持ちを呼ぶ。ヒット曲は不完全終止が多いです。
不完全終止を面白いと感じるかどうかは知性と教養によるところが大きい。
たとえば日本の昔話。すべて完全終止です。
対して俳句。典型的な不完全終止(余韻)文芸です。
嗜むのが教養のある人に限られたからです。
大衆は「古池や 蛙飛び込む池の音」と言われても鑑賞のしかたを知らない(教養がない)ので「訳わかんない」のです。(私も分かりません)
一方、武士などは死ぬ間際にふと教養が出て「辞世の句」詠むのですね。
現代の日本人は、昔と比べて「知性と教養の低い者」が多い、とは思いません。
むしろ知的レベルの高い人は増えていると思います。
にもかかわらずアホが蔓延しているのはなぜか?
ネットとか携帯とかアホが徒党を組みやすいインフラが整備され、昔なら「俺ってアホかも?」と不安を感じた人が「なんだ、俺ってふつうじゃん」と多数派感を得るようになったことに原因があると思います。
それが「自己肯定」にとどまる間は良いのですが、なにせアホですから直情的に「俺が分からんのは、お前が悪い」となり、臆面なくテレビ局に抗議とかしちゃう。
「知性と教養のある者」は攻撃を恐れて、簡単なことしか言わなくなる。
結果、ますますアホが幅を利かす。。。
やりにくい世の中ですね。
「プロポーズ大作戦」も結局、続編を放送しました。
商業的には良かったでしょうが、製作者の心境は複雑だったと思います。
スピーチの中でも、知性が崩壊している人に、どう対処すべきか、
真剣に考えなければなりません。
無視できないわけです。
その一方「分かる人」にもご満足頂かねばならない。
「軽さと深さ」を同時に実現するのは、たいへんな難提ですね。
みなさん、どうでしょうか?
ちなみに先日の「南泉猫を斬る」も、不完全終止を狙いました。
長澤まさみが出てたやつです。
このドラマ、最終回のエンディングが中途半端、ということで視聴者から多数の問い合わせ(抗議?)があったそうです。
うちの娘も「訳わかんない」と申しておりましたので、「アホか?」と言ってやったら、すごい睨まれました。
曖昧な終わり方、つまり不完全終止はドラマや小説や音楽で19世紀ぐらいから頻繁に使われてきたテクニックです。
余韻を残すことで想像力や不満足感をかき立て「もう一回見たい、聞きたい」気持ちを呼ぶ。ヒット曲は不完全終止が多いです。
不完全終止を面白いと感じるかどうかは知性と教養によるところが大きい。
たとえば日本の昔話。すべて完全終止です。
対して俳句。典型的な不完全終止(余韻)文芸です。
嗜むのが教養のある人に限られたからです。
大衆は「古池や 蛙飛び込む池の音」と言われても鑑賞のしかたを知らない(教養がない)ので「訳わかんない」のです。(私も分かりません)
一方、武士などは死ぬ間際にふと教養が出て「辞世の句」詠むのですね。
現代の日本人は、昔と比べて「知性と教養の低い者」が多い、とは思いません。
むしろ知的レベルの高い人は増えていると思います。
にもかかわらずアホが蔓延しているのはなぜか?
ネットとか携帯とかアホが徒党を組みやすいインフラが整備され、昔なら「俺ってアホかも?」と不安を感じた人が「なんだ、俺ってふつうじゃん」と多数派感を得るようになったことに原因があると思います。
それが「自己肯定」にとどまる間は良いのですが、なにせアホですから直情的に「俺が分からんのは、お前が悪い」となり、臆面なくテレビ局に抗議とかしちゃう。
「知性と教養のある者」は攻撃を恐れて、簡単なことしか言わなくなる。
結果、ますますアホが幅を利かす。。。
やりにくい世の中ですね。
「プロポーズ大作戦」も結局、続編を放送しました。
商業的には良かったでしょうが、製作者の心境は複雑だったと思います。
スピーチの中でも、知性が崩壊している人に、どう対処すべきか、
真剣に考えなければなりません。
無視できないわけです。
その一方「分かる人」にもご満足頂かねばならない。
「軽さと深さ」を同時に実現するのは、たいへんな難提ですね。
みなさん、どうでしょうか?
ちなみに先日の「南泉猫を斬る」も、不完全終止を狙いました。
コメント