弁証法
思考のフレームワークとして、弁証法を重視しています。
弁証法はヘーゲルという哲学者の代名詞。
ヘーゲルは古代ギリシャからの西洋哲学を総括しちゃったすごい人ですが、
哲学者には珍しい利己主義な人でもあったそうです。戦時中、真っ先にナチスに迎合したことでも有名です。
ヘーゲル哲学のポイントは簡単に言うと二つです。
一つ目は、世の中には神を超越した絶対的な真理(=世界精神)がある。
これはキリスト教の世界観(全知全能の神の存在)と一線を画するもので、
仏教の「悟り」とほぼ同じ概念ですね。
ヘーゲル以降の西洋哲学は東洋哲学っぽくなりました。
二つ目は、世の中は弁証法的に発展する。
これはどういうことか。
ひとつの論理をテーゼ(定立)として、アンチテーゼ(反定立)が提起される。
これら二つの議論はやがて止揚(アウフヘーベン)し、テーゼとアンチテーゼのよいとこ取りをしたジンテーゼ(統合)が誕生する。
そしてまた、統合を定立として新たな反定立が提起され、議論が止揚し、新たな統合が誕生する。これを繰り返して、人間は真理に近づいていく。
ヘーゲル哲学は、西洋人の人種的優位性を正当化するという一面もありました。
文明的に優れている西洋人=真理により近い、東洋人やアフリカ人=真理からより遠い、という考え方です。
このアンチテーゼとして登場したのが、ソシュール、モースと来てレヴィー・ストロースがまとめた構造主義哲学です。
構造主義は、「文明は進歩しているが、人間の文化は何も進歩していない。未開社会も西洋社会も文化の本質的構造は同じ」ということを論証しました。
それまでなんとなく「上から目線」だった西洋社会は、これを聞いてびっくりしたのですが、21世紀の現在、人種間に優劣はないという考え方(少なくとも表面的に)は世界中に定着しています。特に欧米社会ではヒステリックなまでに「差別」を忌避するようになりました。
これは弁証法的「展開」だと思います。
ヘーゲル思想の中の、「人間の精神は進歩している」、は否定された。
しかしそれゆえに、弁証法の本質「人間の考えることに、正しいことは一つもない。だから議論しながら矯正するのだ」という考え方の正当性は証明されたと思うのです。
日本人は議論下手と言われます。
直接的な原因は技術教育の不備。
しかし本質的な原因は「どこかに正解があるはず。答えはひとつ」という考えにとらわれ過ぎていること、と言語技術専門家は指摘しています。
西洋人も中世までは「答えは一つ」主義でした。
それが20世紀になってようやく「俺もお前も少しは間違っている。その前提で議論しようじゃない」という認識に(少なくともインテリ層は)至った。
もちろん理想通りに進まない感情的な議論も多いですけどね。
「人間の考えることに、正しいことは一つもない」
「だから一つの答えに拘泥する必要もない」
そういう認識をもつこと。
言語技術の向上を図る上でも大事ではないかと思っています。
どうでしょうか?
弁証法はヘーゲルという哲学者の代名詞。
ヘーゲルは古代ギリシャからの西洋哲学を総括しちゃったすごい人ですが、
哲学者には珍しい利己主義な人でもあったそうです。戦時中、真っ先にナチスに迎合したことでも有名です。
ヘーゲル哲学のポイントは簡単に言うと二つです。
一つ目は、世の中には神を超越した絶対的な真理(=世界精神)がある。
これはキリスト教の世界観(全知全能の神の存在)と一線を画するもので、
仏教の「悟り」とほぼ同じ概念ですね。
ヘーゲル以降の西洋哲学は東洋哲学っぽくなりました。
二つ目は、世の中は弁証法的に発展する。
これはどういうことか。
ひとつの論理をテーゼ(定立)として、アンチテーゼ(反定立)が提起される。
これら二つの議論はやがて止揚(アウフヘーベン)し、テーゼとアンチテーゼのよいとこ取りをしたジンテーゼ(統合)が誕生する。
そしてまた、統合を定立として新たな反定立が提起され、議論が止揚し、新たな統合が誕生する。これを繰り返して、人間は真理に近づいていく。
ヘーゲル哲学は、西洋人の人種的優位性を正当化するという一面もありました。
文明的に優れている西洋人=真理により近い、東洋人やアフリカ人=真理からより遠い、という考え方です。
このアンチテーゼとして登場したのが、ソシュール、モースと来てレヴィー・ストロースがまとめた構造主義哲学です。
構造主義は、「文明は進歩しているが、人間の文化は何も進歩していない。未開社会も西洋社会も文化の本質的構造は同じ」ということを論証しました。
それまでなんとなく「上から目線」だった西洋社会は、これを聞いてびっくりしたのですが、21世紀の現在、人種間に優劣はないという考え方(少なくとも表面的に)は世界中に定着しています。特に欧米社会ではヒステリックなまでに「差別」を忌避するようになりました。
これは弁証法的「展開」だと思います。
ヘーゲル思想の中の、「人間の精神は進歩している」、は否定された。
しかしそれゆえに、弁証法の本質「人間の考えることに、正しいことは一つもない。だから議論しながら矯正するのだ」という考え方の正当性は証明されたと思うのです。
日本人は議論下手と言われます。
直接的な原因は技術教育の不備。
しかし本質的な原因は「どこかに正解があるはず。答えはひとつ」という考えにとらわれ過ぎていること、と言語技術専門家は指摘しています。
西洋人も中世までは「答えは一つ」主義でした。
それが20世紀になってようやく「俺もお前も少しは間違っている。その前提で議論しようじゃない」という認識に(少なくともインテリ層は)至った。
もちろん理想通りに進まない感情的な議論も多いですけどね。
「人間の考えることに、正しいことは一つもない」
「だから一つの答えに拘泥する必要もない」
そういう認識をもつこと。
言語技術の向上を図る上でも大事ではないかと思っています。
どうでしょうか?
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