不立文字
俳句は訳が分からん。
小6の息子がつぶやいておりました。国語の問題やっているときです。
いい加減なオヤジ、つまり私。
「答えが分からんときは、とりあえず「人生の儚さを表している」と書いておけ」。
「え、ホントに?」。するどい食いつきです。
俳句問題に往生している子供です。そういう耳よりな情報には飛びつく訳です。
こりゃいかん。反省しつつ、
「いや、まあ、しっかり考えてね。。。」と誤魔化すダメオヤジでありました。
日本の国語教育では未だに「心情描写」と「心情読解」をたいへん重視しています。
しかし、そもそも「心情」は、言語化できません。
「悲しい」とか「うれしい」とか、そういう簡単な言葉は心情のごく一部を表現しているに過ぎません。実際の人間の心情はとても複雑です。言葉で言い尽くすことは不可能です。
それを「書け」だの「読め」と言う。児童虐待ですよ。
こういう教育、実は大正末期の「赤い鳥」運動からです。
それ以前の言語教育は、事実や思想(理論や理屈)などの言語化可能な世界についての表現技術を教えるものでした。
心情や「悟りの世界」などの言語化不可能な世界は、学ぶ(まねる)ものではなく「感じる」対象とされていたのですね。
そのころの日本では、世の中には「言語化可能の世界」とそれを凌駕する途方もない広さの「言語化不可能な世界」があるということは、常識的共通認識だったのだろうと思います。
ところが昭和初期あたりから、「心情理解」という万能ツールをもってすれば、「言語(論理)の世界」も「非言語の世界」も学ぶことが可能、という珍妙な教えが広まった。
これが言語、非言語の両面の思考活動において多くの弊害を招いていると思います。
論理的な世界を表現せねばならない局面で、心情的(感情的)表現を多用してしまう。
あるいは明晰な論理が必要なところを精神論で誤魔化す。
一方、非言語的な世界を言葉で言い尽くそうと、無意味な言葉を連ねる。
または、言葉で言い尽くせない「非言語的な世界」は「訳が分からん。理解不能」と端から切り捨てる。
思考力の低下、思考の狭小化ですね。
禅問答も俳句も、不立文字。
すなわち限界点の言語で、非言語の世界を表現しようとするものです。
芭蕉は、「謂い応せて何か有る」(言ってしまって、何が残るの?)という言葉でそれを言い表しています。
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
この句に込められた情報は、決して言語化できない。
しかし、圧倒的な情報量が含まれている。
それは40インチの液晶画面で映し出されるハイビジョン映像よりも遥かに多い。
それは人の言葉を聞いて学ぶものではない。自分の力で「感じる」もの。
それができれば、それでよい。
息子が中三ぐらいになったら、そう説明してみたいと思います。
いかがでしょうか?
小6の息子がつぶやいておりました。国語の問題やっているときです。
いい加減なオヤジ、つまり私。
「答えが分からんときは、とりあえず「人生の儚さを表している」と書いておけ」。
「え、ホントに?」。するどい食いつきです。
俳句問題に往生している子供です。そういう耳よりな情報には飛びつく訳です。
こりゃいかん。反省しつつ、
「いや、まあ、しっかり考えてね。。。」と誤魔化すダメオヤジでありました。
日本の国語教育では未だに「心情描写」と「心情読解」をたいへん重視しています。
しかし、そもそも「心情」は、言語化できません。
「悲しい」とか「うれしい」とか、そういう簡単な言葉は心情のごく一部を表現しているに過ぎません。実際の人間の心情はとても複雑です。言葉で言い尽くすことは不可能です。
それを「書け」だの「読め」と言う。児童虐待ですよ。
こういう教育、実は大正末期の「赤い鳥」運動からです。
それ以前の言語教育は、事実や思想(理論や理屈)などの言語化可能な世界についての表現技術を教えるものでした。
心情や「悟りの世界」などの言語化不可能な世界は、学ぶ(まねる)ものではなく「感じる」対象とされていたのですね。
そのころの日本では、世の中には「言語化可能の世界」とそれを凌駕する途方もない広さの「言語化不可能な世界」があるということは、常識的共通認識だったのだろうと思います。
ところが昭和初期あたりから、「心情理解」という万能ツールをもってすれば、「言語(論理)の世界」も「非言語の世界」も学ぶことが可能、という珍妙な教えが広まった。
これが言語、非言語の両面の思考活動において多くの弊害を招いていると思います。
論理的な世界を表現せねばならない局面で、心情的(感情的)表現を多用してしまう。
あるいは明晰な論理が必要なところを精神論で誤魔化す。
一方、非言語的な世界を言葉で言い尽くそうと、無意味な言葉を連ねる。
または、言葉で言い尽くせない「非言語的な世界」は「訳が分からん。理解不能」と端から切り捨てる。
思考力の低下、思考の狭小化ですね。
禅問答も俳句も、不立文字。
すなわち限界点の言語で、非言語の世界を表現しようとするものです。
芭蕉は、「謂い応せて何か有る」(言ってしまって、何が残るの?)という言葉でそれを言い表しています。
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
この句に込められた情報は、決して言語化できない。
しかし、圧倒的な情報量が含まれている。
それは40インチの液晶画面で映し出されるハイビジョン映像よりも遥かに多い。
それは人の言葉を聞いて学ぶものではない。自分の力で「感じる」もの。
それができれば、それでよい。
息子が中三ぐらいになったら、そう説明してみたいと思います。
いかがでしょうか?
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