諸行無常

平成21年(2009年)です!
今年もよろしくお願いします。
世の中不景気なニュースが多いですが、
私は、きっとよい年になると思っています。


紅白にも登場した森山直太郎(作詞:御徒町凧)の「生きてることが辛いなら」。

「いっそ小さく死ねばいい」という歌詞が、物議を呼びました。
生活に苦労している人が増えている中「辛いなら死ね!とは、けしからん」という批判が出たのですね。

この批判の背景には、言うまでもなく「生」=「善」、「死」=「悪」という思想があります。
実はこの思想については、古今東西たくさんの人が疑問を投げかけてきました。

例を挙げると、まずはショウベンハウエル。
代表作「自殺について」は、まさに「自殺してもいいじゃん」という内容です。
これが発表された時代、自殺はたいへんな重罪でした(日本でも「心中」は大罪でした)。
自殺者自身は葬式もやってもらえず墓にも入れてもらえない。
その上、家族にも累が及び、財産没収などの厳罰が下されたそうです。
そういう社会にあって、より幸福に生きるための手段として、自殺の自由を容認せよと訴えたわけです。たいへん勇気のある人ですね。

一方、本邦では手塚治です。「火の鳥」ですね。
「死なない人間」を主人公にして、「死なないこと」が「幸せ」かを問いました。
ある日、「火の鳥」が現れ「おいお前、死なんようにしといたから、せいぜい楽しめや」と言って(言ってないけど)去っていく。
始めは喜んでいた主人公。しかし1000年も経つと生きることに飽き飽きするわけです。
さらに1万年もすると人類が全部滅亡しちゃって、話す相手もいなくなる。
それでも死なない。
1億年、10億年。ひたすら生きる。
拷問ですね。

結局、生きることの楽しさとか人生の幸福とかは、死が予約されていてはじめて成立する、ということですね。


そもそも「生とは何か?」あるいは「死とは何か?」
「そんなの簡単じゃん。心臓が動いてりゃ「生」で止まってりゃ「死」でしょ」
まあ確かに。
人間については、それでもいいでしょうね。

ところが、その筋の専門家も生命体(生物)と非生命体(無生物)の違いを定義できていないのですね。
はっきりしない代表が「ウイルス」です。
構造的にはDNAだかRNAだかをもっているので、生物っぽい。
しかし自己増殖機能はないので、無生物のようでもある。
そいうわけで、「ウイルス」については「生物か無生物か」の統一見解はないのです。

ここに、「生と死」という二元論的世界把握の限界が露呈するわけですね。


仏教は宗教ですから、当然この分野のエキスパートですね。
「生と死」をどう捉えているのか。

それが「諸行無常」だと思います。

平家物語の影響で私はこの言葉を「死(的状態)」を表す言葉と思っていました。
しかしそうではないのです。
諸行無常とは「動く」こと、あるいは「変化」することです。
つまり「生」を表しているのですね。
その逆に「動かない」「止まる」ということは「死」です。

しかし不動、不変の状態、つまり「死」なんて、超マクロに考えるとないのですね。
だって死体だって、腐ったりして他の生物の一部になるし、あるいは分解されて無機物になったり。変化し続けるわけです。
要するに「生と死」というような区別はない。すべては一体である、というのが仏教的認識です。

辛いとか苦しいの原因は人間が勝手に自分を止めてしまうことにある。
人間がどうあがこうと「諸行無常」の摂理は変わらん。
だから、「心も体も動かしなさい」。そうすれば辛いのなくなるから。

そういうことではないかと思っています。

新年早々、線香くさい話で恐縮です。

いかがでしょうか?

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