筆削

仕事柄、営業さんとよく話をします。

営業さんは、頭の回転が速く、話題も豊富ですから、話すのはとても楽しいです。

しかしたまには「困った」人もいます。

たとえば、やたらと言葉数(口数)の多い人です。

分かりきったことを長々と説明する。
質問しようとすると、こちらの質問を途中で遮って「ああ、それはですね」なんて、的外れの答えを延々と語ってくれる。
閉口します。
私はこういう人に会うと「いやあ、たいへん参考になりました」と、早々に会話を終了することにしています。
こちらもそのへんプロですから、顔に出したりはしません。
先方は「語ってやったぜぇ」と満足気な表情でお引取りになります。
それ以降、私とアポを取るのは困難を極める、のは言うまでもありませんけどね。

こういう人は「言葉数が多い」=「情報量が大きい」と思い込んでいるのでしょうね。

しかし言葉数の分だけ情報が伝わるのは「言葉を厳選した」ときだけです。

たとえば次のような場合、言葉は二つでも情報量は限りなく1に近くなります。

・「小さな」「あかちゃん」、「大きな」「ダンプカー」
・「赤い」「赤飯」、「白い」「白犬」
・「うるさい」「どなり声」、「耳障りな」「雑音」

前の語は、いわば当たり前のことで、情報価値は殆どない。
省略しても、情報量は変わらないわけです。

一見すると問題なさそうで、つい言っていまうのもあります。

・馬から落馬する
・武者姿の武士
・金を金儲けする
・当社に来社する

早々にお引取り頂く営業さんの話には、こういう情報価値の低い言葉が多いのです。

二語しゃべって、一つの情報しかないということは、30分ですむ話が1時間になるということです。
聞いてる方は、時間とエネルギーが無駄になります。
その上、しゃべっている人の口からは、余計なCO2も排出する。
地球環境保護の観点からも、そういう人とはあまり仕事をしたくないわけです。


では、情報量の大きい言葉の組み合わせとは、どういうものか。

名文中の名文、川端康成「雪国」の出だしはまさにそういうものです。

「国境の」「長い」「トンネルを」「抜けると」「雪国」「であった」。「夜の」「底が」「白く」「なった」。

無駄な言葉がまったくありません。情報量(エントロピー)がきわめて大きい。

しかし、われわれSEが「雪国」みたいな文章を書いたりしゃべったりするのがよいか、というと、そうとも言えません。
目的が違うからですね。
文学の目的は「心情」を伝えることです。
「心情」は(前にも書きましたが)言語化できません。
だから「風景」を「主観的」に描写することで間接的に「心情」を伝えるのです。
読者は描かれた「風景」を自分の経験や無意識を通して解釈することで、作中人物の「心情」を感じるわけです。そのため必然的に、読者によって文学の解釈は異なります。
ちなみにここでいう「風景」とは、視覚的なものだけでなく、五感すべての情報を包含したものですね。

これに対してSEの文章の目的は、「事実」または「思考」を客観的に伝えることです。
だから「夜の」「底が」「白く」「なった」。というような主観的な表現は使えないわけです。
SEの文章や話は「情報量が大きいと同時に万人に共通のイメージを与えるもの」でなければなりません。

雪国をSE的に書くならこういう感じですかね。

「国境の」「長い」「トンネルを」「抜けると」「雪国」「であった」。
→県境を越えて新潟に入ると、天候は雪であった。気温も東京より5度低かった。

「夜の」「底が」「白く」「なった」。
→気象庁の発表によると、積雪は1メートルであった。

ノーベル賞はとれそうにありませんけどね。

いかがでしょうか?

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