大きな子供

昔のスポーツ選手は、話下手が多かったように思います。
何を聞かれても「そうですね」とか「はい」
ぐらいしかいわなかった。

ところが最近の若手スポーツ選手は、非常に話が上手です。
石川遼なんて、とてもしっかりしているし、楽天の田中(まーくん)も顔に似合わず(失礼)理路整然と話します。

この傾向は、一般の若者にも当てはまります。

いったい、いつから、日本人はこんなに「話し上手」になったのか?
理由はともあれ、日本国民としては、慶祝すべきことと思うのでありますが、どうもそう思えない。

なぜか。
確かに、「技術、技巧」はすぐれている。昔の人より数段上です。
しかし内容はというと、なんか「心に残らない」のですよね。
つまり「無難な」ことを、上手にしゃべっているだけという感じがするのです。

「無難」なことを、そつなく話すというのは、まさに「大人」ですね。
われわれは、そうあるべく学校でも会社でも訓練されます。
「大人」らしくしゃべることが、社会の一員と認知されるための必須要件だからです。

それに反して、情熱的に「常識的ではないこと」を語るのは、集団の枠組みから外れることを意味する。社会常識をわきまえぬ「幼稚なやつ(子供)」と言われる。

でもね。
結局、人の心に響く可能性があるのは、「子供の言葉」しかないのですよね。
だって、大人の言葉は、しょせん「誰でもいっていること」にすぎないからです。


「もう、大きな子供なんだから。。。」という表現があります。
大人的な損得勘定を無視し、好きなことに没頭している人を表す言葉ですね。
決して侮蔑や攻撃の言葉ではありません。
愛すべき人を称える言葉ですね。
その人への支援や応援の意志をも表明しているわけです。

日本文化では「大きな子供を愛する」ということが他文化と比べて格段に強かったと思います。

ところが昨今、これが大きく変化している。
「小さな大人」を絶対的に善しとする風潮です。
つまり「常識的なこと」を「要領よく」話すことが最善でかつ正義だという風潮ですね。
お国訛りなど、もってのほか。
訥弁は知的劣等の証と、いうことです。
今や若者の理想像は、寡黙な高倉健(って若い人は知らないかな)ではなくて、ダークスーツに身を固め、理路整然、弁舌快活の外人エリートなのでしょう。
誰もが「スマート」に、「ありきたりなこと」を、「そつなく」話す、ことを目指す。

「日本文化のアメリカナイズ」ですね。
聞こえよく言えば、グロバリゼーションです。

そういう人は確かに「社会でのサバイバル能力が高い」ように見えます。

でも、本当にそうか。
実際の仕事仲間がそんな人だったら、どうでしょう。
私は、イヤですね。
上司でも部下でも同僚でも。ましてビジネス相手としては、特にイヤ。
いつこちらの難点を指摘されるかと、ヒヤヒヤするからです。
実はアメリカ人だって、そう思うそうです。

人にそのような緊張感を与える人は、結局、大きな業績は残せないと思います。
「ひとかど」と評される人で「小さな大人」に徹しているような人は、私の知る限りいないですね。多かれ少なかれ「大きな子供」的なところがあります。
だからこそ、魅力を感じるのです。

我らがF大佐やH閣下も同じです。
実に「大きな子供」です(失礼しました)。
そういう先輩と話をするたび、自分の「小っちゃさ」を猛省します。

日本の若者、ことに遼くんのような天才には、「小さくまとまった話」なんかしてもらいたくない。ぜひ「大きな」話をしてもらいたい。
そう、オジサンは思うのです。

いかがでしょうか?

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