大江健三郎「あいまいな日本の私」岩波新書1995

言わずと知れた日本人二人目のノーベル文学賞作家。
この本は、90年代の前半に行ったたスピーチをまとめたものです。
書名の「あいまいな日本の私」はノーベル賞の受賞スピーチのタイトルで、日本人初のノーベル文学賞作家「川端康成」の受賞スピーチ「美しい日本の私」を早い話がディスった(否定的にパロッた)ものです。
私自身は、恥ずかしながら大江健三郎という作家には興味がなく、実は作品を読んだこともまったくありません。ちょっと左翼系の知識人か?というぐらいの認識しかなかった。
しかし、これを読んで、大江健三郎の「日本の伝統的なものやこと」に対する反感が半端ないものであることがよく分かりました。
川端康成のスピーチは結局「日本の伝統的な美意識」を改めて世界に紹介することを意図したもので、大江健三郎が批判しているように、たしかに文章も難解で何を言いたいのかよくわからんところはありますが、当時の日本の立場を考えると、まだまだ「日本最高!」みたいなことを簡潔明瞭に言うのは憚られる状況だったでしょうから、あれが精一杯の「日本復権アピール」だった気がします。
大江健三郎のスピーチは、それを完全否定するもので「日本は侵略戦争をした」「従軍慰安婦問題について日本は謝罪すべし」「原爆落とされたのも日本のせいだ」「日本的な価値観を大事にすると日本はおかしくなる。西洋思想で日本を塗り変えるべし」というようなことを言ってるわけです。まさに朝日新聞的な「反日史観」を世界に向けて喧伝した格好です。河野談話や村山談話の伏線だったともいえますね。

大江健三郎的というか朝日新聞的な「反日史観」をもつ人が好んで使うことばに「民主主義」あるいは「戦後民主主義」という言葉があります。そして、そういう人たちは、これまた共通的に絶対に「民主主義とは何か?」という定義をしません。ただ、現在の政策であったり、過去の失敗みたいなことあげつらいつつ、その対立概念としてそういった言葉をうまいこと使います。
つまり失敗したものや悪い者はすべて「非民主主義」で「民主主義」は絶対失敗しないものというわけです。
「反証不可能性」を前提にしたとき、それはもはや科学でも論理でも無くなります。つまり彼らのいう「民主主義」は科学的でも論理的でもない。いわば宗教ですね。

私はこれでも技術屋のはしくれなので、そんな話に付き合うのは時間の無駄だと思っています。

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